【ハッピーちゃん】同じものをそれぞれ自分の視点から見て楽しんでいる

HAPPYさんこと、竹腰紗智(前田紗智)さんがお話していた内容を文字起こししています。

心が苦しくなった時や辛い現実を変えたいと思った時に、スッと気持ちが楽になると思いますので、ぜひ読んでみてくださいね。

今回は、2020年4月16日のお話し内容です。

この記事の内容は、HAPPYさんの愛の計らいによって著作権フリーとなっているため、共有させて頂いております。

目次

【ハッピーちゃん】同じものをそれぞれ自分の視点から見て楽しんでいる

自分を愛するって素晴らしいんだけど。
じゃあそのソースそのものの本質って何?って。

宇宙の創造の源、創造主、エネルギー、神、ハイヤーセルフ。
呼び方は何でもいいです。

その始まりの何かっていうのをもし違う言い方をするのであれば、私的には愛の眼差しなんですよ。
愛の眼差しそのものが、その始まりが持つ行為なんですよね。

愛することっていう行動をいつもしているのが、ソースの存在なんですよ。
その観点で見た時に、自分がソースだったって思い出す瞬間っていうのは、愛することをしている時。

その時にソースそのもので君臨しているので、この地上で。
愛することをしている時。


だから別にそれは自分に向けられていなくても、そもそも自分とか他人とか本当はないから。
自分は見る視点の中で、ここの世界にあるもので何でもいい。

自分だろうと他人だろうと物質だろうと、何でもいいんだけど。
それに対して愛の眼差しを持っている瞬間、あなたはソースそのもので地上にいるんですよね。


だから別に、自分自身に対してって限定しなくていいんですよ。
あなたはその瞬間、ソースなんですよ。


この時間を増やすこと。
この瞬間を切り取っていくこと。


「あ、可愛いなぁ」って何かを愛でてる時。
「あぁ、最高だな」って。

自然を見て「綺麗だな」とか「風が気持ちいいな」っていう。
その愛の眼差しの時、あなたはソースそのものになってるんですよね。


その瞬間を増やしていったら、勝手に自分自身が何も別にできるようになったわけじゃなくても、条件付きの愛っていうのが外れていく。

だから比較をしなくていいっていうか。
そこで、これがいらないんですよ。

風を感じて「あぁ、気持ちいいな」って、その瞬間せっかくソースそのもので、愛の眼差しで愛することを今してる。
なのに「風を感じて気持ちいいって言っちゃって、一体何になるの?」とか思ったり。


あとは例えば、こういう人がいましたけど。
「ハッピーちゃんのことは可愛いなぁって見れるのに、自分に対してはそんなことを思えないな」って。

この余計なことが、全くいらないっていうことですね。
もう「あ、今私ソースそのものでいるんだな」って。

ソースがする唯一の行動って、愛することですから。
「この瞬間、私それになってる」っていう。

その瞬間が増えれば増えるほどに、自分に対しての眼差しも、無条件の愛の眼差しになるんですよ。
だから最初自分に向けにくかったら、自分の世界に現われるものを何でも使っちゃえばいい。

自然に勝手にその愛の眼差しが、自分に向けられてくるのよ、だんだん。
世界に対して愛でる行為、愛する行為みたいなのを増やしていったら、勝手に自分に向けられてくる。

そこに余計な比較とか罪悪感とか「くだらない」とかっていう、そんなものをなくして、思う存分その瞬間愛の眼差しで見ていくことができたら、勝手に自分に自己肯定感っていうのが高まる。
自然にね。

私はちなみに、こっちのタイプでしたよ。
最初は自分のことに対して否定が強かったから、「自分を愛するとか分かんねぇ」みたいなところからスタートして。

でもエイブラハムが「最初はやっぱり、自分に対してそういう目線を持つのは難しい」って。
「だから別に何でもいいんだ」って。

自分の世界に現れるものを見て、「あぁ素敵だな」って思った。
その気持ちが、そもそも大事だって。


だから愛することを愛する。
自分を愛するっていうより、愛することをしてる自分っていうのがソースなんですよ。

だからそういう時間を感じた時は、「今ソースそのものの視点で、この世界を見れてる」って。
ソースそのものの時間が増えたら、ソースタイムなわけじゃん。

当たり前だけど、パワーが出てくるでしょう?
だから別に自分に対して向けなくたって、何だっていいんだよ。

ソースそのものでいる時間を、増やせればいいわけだから。
だからケーキを食べて「美味しい、このケーキ最高」ってやってる時も、ソースそのものになってますよね。

もう、ソースそのものですよ。
愛でてる。
世界を愛でてる視点。

それからもう1個。
さやちゃん(吉野紗弥佳さん)が壱岐の経済を応援したいって、2000人にプレゼント企画をして。

「それってどうなんだ」みたいなことを、言われてしまった、と。
それで、すごく嫌な気分になったっていう。

これって結局、さっきソースは愛の眼差しって言ったけど。
眼差しって言うなら視点っていう話ですよね。
視点、視る点、愛の眼差し。

そういう1つの視点で、ソースは愛の視点しか持っていないということですね。
私たちは今ソースエネルギーの変化バージョンっていうか、その一部としてまた、そことは違う視点をそれぞれ持っているわけですよね。

愛そのものの視点だけじゃない、分離を感じる視点っていうものを持てている。
まぁある意味、持てているわけですね。

愛そのものの視点じゃないものも、持てているわけですよ、今。
これはどういうことかって言うと、私最近まで悩んでたんですけど。

まぁ、ごめんなさいね。
そんなに悩みでもないんだけど。

あまりにも今、この世界の流れと違うぐらい自分の至福の中にいて、幸せと喜びでちょっとやっぱりテンションにギャップを感じて。

だからゾンビ映画を見て、周波数をちょっと下げた方がいいかな、みたいな。

なんでそんなことを思ったかっていうと、医療従事で今頑張ってくれてる人がいたりとかそういう中で、すごく自分が不謹慎な存在な気がして、ちょっと血迷ってたんですけど。

私は私のいる場所での視点しか、分からないんですよ。
その医療従事で今一生懸命やって下さっているそこの人は、そこの人の場所の視点しか逆に分からない。

友達との考え方の違いがあったとしても、でもその人は違う場所の視点を持ってるわけですよね。

どういう話かって言うと、例えば同じ大きな山を見ていて、北緯138度にいる人と南緯75度にいる人って、いる位置が全然違うんですよね。

そこから同じ山を見た時に、いる経度が全然違うから。
「そっちから見たらどんな感じ?」っていうのが、「この山はこんな風に見えるよ」っていう視点と「こっちはこんな感じで山が見えてる」みたいな。

同じ山を見てるのに、全然違う風に見えてたりするわけですよ。
それはいる場所が違うから、視点の違いが生まれて当たり前ですよね。


ここに私たちには何をしに来てるかって、愛の眼差しっていう愛の視点しかなかった1つの視点しかなかったところから、色んな場所にいろんな経度で散らばって「そっちからはどう見える?」っていう、いろんな視点ごっこを楽しんでる世界なわけですよ。

だから特に今、全人類が同じウイルスという大きな問題に対して、見てるじゃないですか。
でも場所が全然違うから。
立ってる見てる視点が。

仲の良い人とですら、意見は割れてきて当たり前だと思うんですよ。
その都度分かり合う人とか同意する人とだけっていうと難しくなってきて、もうみんなと戦わなきゃいけなくなっちゃう。

だって視点ごっこだから。
たくさんの視点があって、当たり前なのよね。

その人の経度から見たら、それはそういう風に見えてるわけだから。
「あ、そうなんだ」なんだよね。

でも自分から見たらこう見えてるから「自分の視点はこうなんだ」で、終わりなんですよね。
だからどの情報を見たとしても、あくまでその人が、その場所から見ている視点の話をしてくれているに過ぎないから。

自分がいる場所でその情報を聞いた時に、「自分はどういう風に見えるかな?」っていう。
言い方変えると、「どう感じるか」なんですよね。

自分がいる人間的な視点は、そうなのよ。
山を違う方向から色々見てるから。

でもソースの視点にバッと立っちゃうと、みんな視野がいきなり上に上がって、全体が見れるんだよ。
今誰がどこにいて、山がどういう風に見えてっていう。

全部の視点がどこに散らばっててこの世の全体像がどうなのかが、ソースの愛の眼差しで見た瞬間に、全体像が捉えられるようになるんですよ。

ここは唯一のひとつなる視点ですね。
人類が全員共有できる。

だからなるべくソースの愛するという好意、愛の眼差しっていうもので世界を見る時間を増やせば増やすほど、今言った戦いみたいなものも自分の中で終わらせることができる。

だって真逆の経度に立ってて山を見てる人に「きっと同じ山を見てる」なんて、お互いに思わないと思う。
でもソースの視点に立って全体が見えた時に、「あなたも私も一緒のものを見てたんだね」ってなるわけだよね。

なんで私たちがこうやって分離して生まれてきてるかって言ったら、それぞれの1個しかなかった愛の眼差しの視点から地上に降りて、いろんな視点で物事を世界を見ていくっていうために、わざわざ別れたわけだから。

意見なんて、誰とも合いませんよ。
どこまで行ったって、100%擦り合わせられる人間同士なんて存在しない、絶対に。

だから、自信を持ってほしいんですよ。

なんで今私がここに存在してるかって言うと、私は私の視点っていう役割を担うために、今ここに存在してるから。

私の視点っていうのがすごく大事だから、今私はここにいるわけですよね。
だから、人の視点のことを考えなくたっていいわけですよ。

私は私のいる場所の視点っていうのを、堪能するっていう。
だからその視点っていうのは、言い方を変えると自分の感じ方。

北緯135度南緯55度と、北緯135度南緯56度で、隣同士だからたぶん似てるんだけど。
1度違うから視点はかなり似てるけど、でも違うんですよ。

それが存在する意味っていうか。
違う場所にそれぞれ立って違う視点でものを見ていることが、この世界に存在してる意味ですよね。

そう、だから私はこれを思い出したから。

「あぁ、そうだそうだ、人の視点になり代わって何かをしようとしてた」
「私が今ここに存在しているのは、私は私の場所の視点っていうものがあるわけだから、そこの役割をちゃんと全うしよう」と思ったわけですね。

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